「半眼」の必要性について
人は、熱い、冷たい、痛いなどと身体で感じ、目や耳からの情報で、自分の居場所を感じ取ったりする。眼をつぶっていても、感覚で関節や手足の動きや位置関係を知ることができる。これは、身体への外からの刺激を、体内にある特定の器官である感覚受容器が感じ取り、その空間の中で自分の身体の位置関係の情報が脳に送られて、脳が情報処理を瞬時に行なっているから、身体の動きや位置関係を知ることができる。
感覚受容器とは、身体の内外の様々な情報をキャッチする場所のことである。視覚(目)、嗅覚(鼻)、聴覚(耳)もそれにあたり、関節や筋肉、腱、皮膚にも同じように情報をキャッチする感覚受容器が存在する。この感覚受容器の感度と、脳で認知する速度の異なりによって、動作感覚やバランス感覚に個人差を生み出している。
特に目からの情報は、感覚受容器の中で最も速く脳に伝達される器官である。その視覚からの情報伝達が速いばっかりに、遅れて脳に伝達される感覚受容器(関節や筋肉、腱、皮膚の感覚)が、後付けの情報処理での結果であるが為に優先されずに、先付けの視覚情報の結果の方が正しいと判断されることが多分にある。しかし、視覚からの情報は、錯覚の情報である場合が多いい。従って、後からの情報である関節や筋肉、腱、皮膚の感覚受容器の精度を高めて、視覚に頼らない判断(認知)をすることが大切である。
例えば、初心者が的前に立つと、矢所が的の前に飛ぶことが多いいが、矢が前に飛ぶのが視覚からの情報が速く認知されるから、自己の身体の力使いの働きが真っ直ぐに働いていなかった情報が遅くなり、力の働かせ方の間違いに気づかずに、的付け(ねらい)を後ろに移動させてしまうことが往々にしてある。また、的への的中と的中音の視覚と聴覚の情報結果が速く認知されるがために、その的中の結果を生み出したときの、手の内や関節の筋肉の働かせ方の感覚記憶が希薄で、次からの射に良かったときの筋肉の働かせ方が反映されないことになる。
日常の行射の稽古において、自分の体を精神的にも肉体的にも安定させ、心と身体をコントロールすることが出きる状態にして置くことが、行射をうまく上達させるポイントである。しかし、眼からの情報を頼りに判断して動作を起こしてしまうと、自分の心と身体をコントロールできなくなってしまう、と云うことが起きる。
弓道の稽古においては、的中などで結果が良かったときの感覚を、次からの射で追い求めるよりか、良い結果を導きだしたプロセスを大切にし、行射する過程で感じたその時々の感覚を再現するように稽古を重ねることが大切である。
基本体の「基本の姿勢」での目線は、立ったときは4m先に、腰掛けたときは3m先に、正坐したときは2m先に、跪坐したときは2,5m先に、それぞれ目線を向けるのが基本である。
その場合の眼は、大仏さまの目のように半眼にして目線を落としていると、自然にそれぞれの距離の目線となる。また、半眼で行射することによって、自己の内面を見続けることが出きて、且つ眼からの情報が少なくなり、関節や筋肉、腱、皮膚などの感覚受容器の情報を正確に認知することができるようになる。
仏像や大仏さまが「半眼」であるのは、先を観ているようで見ていない、外を見ているようで内を観ている、眼で観ていながらみつめることをしない。
息合いを使って「半眼」にしていると、内と外とのバランスが分かってきて、心と身体と弓との全てのバランスが掌握されてくる。悟りを開くためには、このようなものの見方が必要だということで、仏さまは「半眼」なのである。
眼を見開らいて、一点を見つめるように的を注視していては、的にばかり気持ちが片寄って、自分の心を見失い、自分が今何をなすべきであるかも失う。また、そうした目使いは、はたから見られると品格を見透かされる(目は口ほどにモノを言う)。半眼で己の心の中を視ていれば、的にとらわれることは無く、自分が何をなすべきかが観えてくる。
参考資料<感覚の分類>感覚は大きく分けて3つに分類される。
1)体性感覚:表面感覚(皮膚感覚)と深部感覚を合わせて体性感覚という。
表面感覚には触覚(触れた感じ)、圧覚(押えられた感じ)、温覚(温かさ)、冷覚(冷たさ)痛覚(痛さ)、痒覚(かゆみ)がある。深部感覚には運動感覚、深部痛が含まれる。
2)内臓感覚:臓器感覚(吐き気など)、内臓痛覚が含まれる。
3)特殊感覚:視覚(目で見る)、聴覚(耳で聞く)、味覚、臭覚、前庭感覚(平衡感覚)が含まれる。
以下余談
会社勤めをしていた時の「養心弓道場」の道場は、昭和22年に建てられた木造平屋建て五人立ちの道場で、私が弓道部に入部した昭和35年4月から、私が育った弓道場である。
昭和37年11月に弓道場が改造されて、間口7間、奥行き5間で、正面の上座は床が一段高くなった畳の席(審判席)と床の間があり、控えが畳(1.5間×3間)で中央に囲炉裏がある。矢取道の横に廊下続きで、8帖の和室と台所と玄関がある、立派な道場である。
玄関に書道部の師範春雷先生が書かれた「養心弓道場」の看板が掲げられ、床の間には宇野竹隠範士が揮毛された『千射万箭悉皆新也』の掛け軸が掛けられていた。
和室は、日替わりで茶道部・書道部・琴曲部・将棋部・囲碁部・華道部が利用し、弓の稽古の合間にお抹茶を御馳走になり、琴の音色を聞きながら1弦(弓)の弦音を響かせて、稽古に励んでいたのを懐かしく想う。
昭和37年11月23日に弓道場改造記念の射会が開催され、来賓として宇野要三郎先生(当時日弓連会長)・安澤平次郎先生・窪田真太郎先生・鈴木弘之先生・村上久先生・赤井一夫先生の各範士の先生方をお招きして道場のお披露目が行なわれた。射会の後に各部員に対して各大先生から、行射の講評と射技の手ほどきを直接していただいたのを覚えている。

退職後、会社の都合で弓道場が閉鎖されて、その道場の看板と掛け軸は行方不明となり、「養心弓道場」の名称を私のブログに残している。
感覚受容器とは、身体の内外の様々な情報をキャッチする場所のことである。視覚(目)、嗅覚(鼻)、聴覚(耳)もそれにあたり、関節や筋肉、腱、皮膚にも同じように情報をキャッチする感覚受容器が存在する。この感覚受容器の感度と、脳で認知する速度の異なりによって、動作感覚やバランス感覚に個人差を生み出している。
特に目からの情報は、感覚受容器の中で最も速く脳に伝達される器官である。その視覚からの情報伝達が速いばっかりに、遅れて脳に伝達される感覚受容器(関節や筋肉、腱、皮膚の感覚)が、後付けの情報処理での結果であるが為に優先されずに、先付けの視覚情報の結果の方が正しいと判断されることが多分にある。しかし、視覚からの情報は、錯覚の情報である場合が多いい。従って、後からの情報である関節や筋肉、腱、皮膚の感覚受容器の精度を高めて、視覚に頼らない判断(認知)をすることが大切である。
例えば、初心者が的前に立つと、矢所が的の前に飛ぶことが多いいが、矢が前に飛ぶのが視覚からの情報が速く認知されるから、自己の身体の力使いの働きが真っ直ぐに働いていなかった情報が遅くなり、力の働かせ方の間違いに気づかずに、的付け(ねらい)を後ろに移動させてしまうことが往々にしてある。また、的への的中と的中音の視覚と聴覚の情報結果が速く認知されるがために、その的中の結果を生み出したときの、手の内や関節の筋肉の働かせ方の感覚記憶が希薄で、次からの射に良かったときの筋肉の働かせ方が反映されないことになる。
日常の行射の稽古において、自分の体を精神的にも肉体的にも安定させ、心と身体をコントロールすることが出きる状態にして置くことが、行射をうまく上達させるポイントである。しかし、眼からの情報を頼りに判断して動作を起こしてしまうと、自分の心と身体をコントロールできなくなってしまう、と云うことが起きる。
弓道の稽古においては、的中などで結果が良かったときの感覚を、次からの射で追い求めるよりか、良い結果を導きだしたプロセスを大切にし、行射する過程で感じたその時々の感覚を再現するように稽古を重ねることが大切である。
基本体の「基本の姿勢」での目線は、立ったときは4m先に、腰掛けたときは3m先に、正坐したときは2m先に、跪坐したときは2,5m先に、それぞれ目線を向けるのが基本である。
その場合の眼は、大仏さまの目のように半眼にして目線を落としていると、自然にそれぞれの距離の目線となる。また、半眼で行射することによって、自己の内面を見続けることが出きて、且つ眼からの情報が少なくなり、関節や筋肉、腱、皮膚などの感覚受容器の情報を正確に認知することができるようになる。
仏像や大仏さまが「半眼」であるのは、先を観ているようで見ていない、外を見ているようで内を観ている、眼で観ていながらみつめることをしない。
息合いを使って「半眼」にしていると、内と外とのバランスが分かってきて、心と身体と弓との全てのバランスが掌握されてくる。悟りを開くためには、このようなものの見方が必要だということで、仏さまは「半眼」なのである。
眼を見開らいて、一点を見つめるように的を注視していては、的にばかり気持ちが片寄って、自分の心を見失い、自分が今何をなすべきであるかも失う。また、そうした目使いは、はたから見られると品格を見透かされる(目は口ほどにモノを言う)。半眼で己の心の中を視ていれば、的にとらわれることは無く、自分が何をなすべきかが観えてくる。
参考資料<感覚の分類>感覚は大きく分けて3つに分類される。
1)体性感覚:表面感覚(皮膚感覚)と深部感覚を合わせて体性感覚という。
表面感覚には触覚(触れた感じ)、圧覚(押えられた感じ)、温覚(温かさ)、冷覚(冷たさ)痛覚(痛さ)、痒覚(かゆみ)がある。深部感覚には運動感覚、深部痛が含まれる。
2)内臓感覚:臓器感覚(吐き気など)、内臓痛覚が含まれる。
3)特殊感覚:視覚(目で見る)、聴覚(耳で聞く)、味覚、臭覚、前庭感覚(平衡感覚)が含まれる。
以下余談
会社勤めをしていた時の「養心弓道場」の道場は、昭和22年に建てられた木造平屋建て五人立ちの道場で、私が弓道部に入部した昭和35年4月から、私が育った弓道場である。
昭和37年11月に弓道場が改造されて、間口7間、奥行き5間で、正面の上座は床が一段高くなった畳の席(審判席)と床の間があり、控えが畳(1.5間×3間)で中央に囲炉裏がある。矢取道の横に廊下続きで、8帖の和室と台所と玄関がある、立派な道場である。
玄関に書道部の師範春雷先生が書かれた「養心弓道場」の看板が掲げられ、床の間には宇野竹隠範士が揮毛された『千射万箭悉皆新也』の掛け軸が掛けられていた。
和室は、日替わりで茶道部・書道部・琴曲部・将棋部・囲碁部・華道部が利用し、弓の稽古の合間にお抹茶を御馳走になり、琴の音色を聞きながら1弦(弓)の弦音を響かせて、稽古に励んでいたのを懐かしく想う。
昭和37年11月23日に弓道場改造記念の射会が開催され、来賓として宇野要三郎先生(当時日弓連会長)・安澤平次郎先生・窪田真太郎先生・鈴木弘之先生・村上久先生・赤井一夫先生の各範士の先生方をお招きして道場のお披露目が行なわれた。射会の後に各部員に対して各大先生から、行射の講評と射技の手ほどきを直接していただいたのを覚えている。

退職後、会社の都合で弓道場が閉鎖されて、その道場の看板と掛け軸は行方不明となり、「養心弓道場」の名称を私のブログに残している。
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